昭和57年3月23日 春季霊祭
秋田健一郎
おかげを頂きまして、23日の月次祭に合せて、春の霊祭を、ただ今このような形で奉仕させて頂きました。
今、最後に修行生の先生方が子供を抱っこして、(?館内放送でよく聞きとれない)だっこへっこ、この地方にだっこへっこと言うなんかお祭りのようなのががあると聞いておりますが、霊祭は、いよいよ、だっこへっこというおかげにならなければならない。
だっこへっこというような、抱く子も這う子も、もう、家族中でというわけなんです。
ね。
抱く子も、ね、それこそ、玉串をあげきらんですよ。けれども、例えば、霊様に(?)、アノー、子供が一緒に親に抱かれてきておる。それを、マアー、霊がこよなく喜ぶということじゃないでしょうか。ね。
昨夜は、アノー、例によって、今日のお祭りがスムーズに執り行われることのための、霊達の、言うなら、誠意とでも申しましょうか。また、以前は、言うならば、恵まれない霊、合楽に縁のある限りの霊達の中にも、ソノー、モー、合楽への信心は中絶して止めて、信心が全然無いという方達でも、合楽に、言わば、縁のある限りの人達に繋がる霊ですから、もう大変な、アノー、数だと思うんですが。
そういう霊達も、今日のこのお祭り、マ、言うならば、霊の宴とでも申しましょうか。それに、今、参加を許されて、エー、おかげを蒙っておる、
マア、私がこんな風に申しましても、どこまで皆さんが実感で受け止めて下さるか分からんけれども、私は、昨日、そのことをしきりに思いましてね。
モー、本当に合楽の信心が、こんなにも有り難くて素晴らしいんだ。教祖金光大神が、こういう内容と、こういうご信心をなさって、マー、言うならば、天地の親神様、昨日の朝のご理解でしたたけれども、天地の親神様の全貌という言葉を頂いたんです。ね。
世の中には、マア、昨日の、これは朝のご理解ですけれども、ね。めくらさん達が動物園に見学に行った。大きな象だと説明を受けただけでは分からんから、お尻を撫ぜただけの人もある。鼻んところだけを撫ぜた人もあった。足をコーさすっていた人もあった。
「ホー、象ちゃ、柱んごつあるばい」(笑い)。
また、尻を撫ぜたつは、「もう、おもいっきり大きなお寺んごたる」。
「象とは、モー、とにかく、ゆらー、ゆらーしとるごたる」鼻んとこだけ捕まえた人は。
と、マアー、言うたという話がありますが、私は過去の数千年、人間世界に宗教として、エー、段々おかげを頂いて来た宗教は、先ずは皆んなそうだと思うですね。
だから、和同(?)十全の道が開けなかったんです。ね。
なるほど、キリスト教とか、仏教とか、モー、それこそ大きな宗教はありますけれども、ね、いわゆる、十全の道を説けなかった。人間が真に助かることのための宗教ではなかった。教祖金光大神が御出現になった。
エー、昨日、久留米の飯田(?)先生が、今、ヨーロッパに旅行、もう1ヶ月位、ご子息と2人で、お医者さんですからご子息も、モー、その医学の、と、御自分が宗教に非常に関心を持っておられますから、キリスト教とか、アー、いろんな、あちらの宗教なんかも、見たり、ソノー、研究をなさって、おそらく教会の絵とかいうお話ですけれど、昨日、6,7枚一緒にまとめて絵葉書が参りました中に、「ハー、ようわずかばかりの間に、これ程しに、合楽理念をマスターして、これ程しに金光大神の信心を把握しておられたであろうか」と言う。それは、モー、ほんな短編的な、一寸、マアー、詩か何かのような感じで、絵葉書ですから、書いておられますけれども、非常に深い。エー、例えて申しますと、オー、天照皇大神宮は日本の統領であり、天地金乃神は、マアー、言わば世界のと、昨日のご理解をちょうど裏付けするような感じで、言うならば、世界の言わば神様だ。その世界の神様の、その全貌、その全てを頂かれ、また、そのお心の深い思いを神様が教祖金光大神に神頼みになられた。
私は、昨日も、これも新しい表現ですけれども、「天地金乃神という神は、願いの神だ。」ということでございました。初めて聞く、ね。
教祖金光大神は天地金乃神の全貌を頂き、現わそうと御依頼を受けられた。ね。
「天地金乃神様という神様は、ね、願いのが神だ。『氏子、信心しておかげを受けてくれよ。』という願いの神だ。」と言うような表現で、昨日朝ご理解を頂いたが、それを裏づけするような、アノー、お葉書が参りました。
モー、とにかく、やはり、本気で合楽理念の実験実証、またの葉書には、とにかく、モー、たくさんな宗教者、特に、回教なんかの先生と言われる人、信者と言われる熱心な人達が研修、皆、集まって来ておる人達の話を聞いて、素晴らしい話をするし、または、とても人の真似出来ないような、マー、修行をしておる。いわゆる、表行です。断食をする。モー、とにかく、モー、拝む。(?)時間を切って、御祈念をするといった、厳しい(?)話をする時には一寸も助かっていない。
そして、それを、その悩みを、皆が訴えておるのを聞いて、「哀れなるかな。」と、最後に結んでおられました。
合楽にご縁を頂いて、合楽の理念に基づいて日々おかげを頂いておる者の上に、これは又の葉書にね、手応えの無い信心ではだめだということを書いておられる。
モー、今、モー、世界中の宗教、これは、エー、仏教の初めの頃はまだしものことだけれども、モー、とにかく、手応えのあるというような宗教は、先ず、皆無だというようなことも書いてありました。ね。
ただ、合楽理念に、エー、傾倒し、合楽理念の実験実証させて頂く自分が、モー、いよいよ有難うなって来たという意味のお葉書が、書いてありました。
エー、ですから、それ程しのもの、それこそ十全のおかげが受けられる信心とその教えを頂いておってね、私が、そういうおかげを受けて現わさして頂いておる。これを。皆さんに、どうかして分かって貰いたい。いや、分からせなければならない。そういう、一つの責任をすら感ずるのです。ね。
ですから、私が、一生懸命に言う。だから、昨日も、修行(?)の先生方と話したんですけれどね、これは私が、モー、「合楽理念がこんなに素晴らしい」、「こんなに有り難い」と、いくら言うてもね、「ありゃ、モー、親先生のは別だ」と。または、聞きようでは、「我田引水も我がもん(?)だから」と、言われる人もあるかも分かりません。
けれども、実験実証し、それを現して、そして、間違いなく神様に頂いた御教えを、私が実行して、生まれて来る体験、頂くお知らせを、皆さんに聞いて頂くのだから、これ程、間違いの無いことは無いと思うんだけれども、これは、私が言うとった分じゃでけん。
これは、モー、皆の、合楽におかげを頂いておる一人一人が、私が言うておるようなことが言えれる、言わば、実験実証者にならなければならないなあと。
モー、「とにかく、私が死なにゃ分からんじゃろう」と言うて、マアー、昨夜なんか、そんな話をしたことでした。ね。
霊の場合であってもそうです。昨日、昨夜、私がつくづく感じたことは、私が霊、霊のお祭りを仕えたり、また、あの(?)のような様々な、アノー、ことを、のに出会いましてから、その実感を皆さんに伝えても、果たして、どの位、「層ですか。そりゃ、本当でしょう。」と言うて、それに傾倒してくる人が、どれだけあるだろうかと。モー、とにかく、私は、今日、先程頂いた「だっこへっこ」じゃないけれども、特に霊のお祭りというたら、お店ならお店を休みにして、抱く子も、這う子も、皆、一家中の者がね、ご先祖の霊達、それ、自分達の知らないような、そのかかわりの霊達が、今日の日を喜びで受け、頂いておるのです。
これも昨夜頂いたことでございますけれども、そして、その、例えば、先だってから若先生が、どこか図書館からご本を借りて、何か、天理教のご本、天理というご本?。何という?「人間?」、ああ、「人間誕生」という。ね。
人間が、というのはいつ生まれたかという、それを天理教では「もと教え」という風に、教祖様は仰っておられるそうですが、ね、あらゆる、マアー、神学的なというか、アー、いわゆる、マー、伝説的に言い伝えられておる話をたくさん集めてある。
その中の、たいがい殆んどがね、ソノー、“土”で神様が人形を造った。それに、命を吹き込んで人間にした。と言うような類が多いんですけれども、私は、それを一生懸命研究しておる方達がおる。考古学の面からそれを研究しておる人もあるし、その、ソノー、人間誕生という、を究明していく人達があるんですけれど、何億年前に人間が誕生し、それが分かったからとて何になるだろうかと、こう思う。私はそれを、もう此の頃、読めませんから、少しばかり読んで貰って、もう途中で「良か。良か。」と、止めたことでした。ね。
それが分かったからとて、なら、本当だとは、とても信じられない。それよりも、私がいつも申しますように「人間は、もう、土より出でて土に還るんだ」。人間は土より出でて土に還るんだ。ね。だから、その道中とても土の心で、いよいよ徹底した生き方をさせて頂くところから、それは天地に通い、言わば、それを「日月の心」をもって行ずる時にです、人間の幸せの条件が、必ず足ろうて来るのです。
「人間の幸せの、言うならば、条件の全てが足ろうて来るんだ。」と言う、なら、実験実証をさせて頂いて、はじめて、「なるほど、人間は土より出でて、土に還るんだ」と言うことになるのじゃ。それを確信できることになるのじゃないでしょうか。
人間は、ね、神様が土で、こう、人形を造って、そして、命を吹き込んだと言うことで「ホー、そうかな」と、マアー、単純に思う人があるかも知れん。けれども、それでは合点がいくまいと思う。あらゆる宗教宗祖という方達が、やはり、いろいろ、そんな事にも、やっぱ、感心した人達があって、いろいろと説いてある。だろうと思うんです、こんな厚い本だから。そんなことが書いてあるだろうと、ね。
けれども、私は、合楽で言われる、言うならば、「だから、土の生き方を身に着けていく手立てを」、あらゆる角度から説く。ね。だから、それを身に着けていくところに、なるほど天地がバックかと思われるようにね、一年一年、有難うなって行き、これが位というもんであろうかと思うように、自分の心に一つの位を感ずるような日常生活、この心、この魂が、そのままあの世にも又行けるんだというところに、あの世に対するところの、ウーン、マアー、信念も、観念的に出来て来る。だから、その魂さえ、いよいよ清め、清めておくと言うか、モー、とにかく、喜びにあふれる心にしておきたいというのが「信心すれば、一年一年、有難うなって行く」のであり、「信心すれば、一年一年、位がつくものじゃ」というような信心を身に着けていかなければならん。
ね。だから、神様が有るの無いのじゃなくて、本気で実験実証してみなさい。本気で土の心になってみなさい。そこに、なら、おかげが現れて来る。「ハアー、なるほど、土から出でて土に還る。だから、土の心に徹底していかなきゃならんのだ。」ということが、モウー、体験を積む度に、それが確かになっていくように、ね、霊の場合にもです、ね、何かそういう確かな手立ての、は、ないものだろうかと、昨夜、そのことを思うてご祈念をさせて頂いておりましたら、「実証をもってね、悟れ」と。
今日、高松和子先生が、沢山、いろいろと、お供えをこげーん沢山、これをいろいろ取り揃えての「親先生、モー、心で一生懸命思うとりますけれども、ソノー、お金の繰り合わせが頂けなかった。お願いさして頂いておりましたけれども、この霊のお祭りに、これとこれとこれだけは、モー、借金してからでもお供えさして頂かにゃと思うておりましたら、昨日、モー、本当におもいがけない、それこそ、思い以上のお繰り合わせを頂いて、このお供えが出来ます」。手応えがあったわけ。ね。
私は、そのことを神様にご祈念させて頂いとりましたら、頂きますことは、今日は、アノー、霊様の前のお供えに、菊正宗の超特級が沢山お供えしてあるでしょう。2、3日前、或る方が「霊様にお供えして下さい。」と言うて、3箱持って見えた。勿論、6本入りですから、さぶろくの18、18本並んでいる。ね。これは、私共の九州の祖と言われる桂松平先生は大変お酒の好きなお方であった。ね。九州の桂先生が、ソノー、桂燗(かつらがん)と言う、ソノー、マア、言葉が残っておるほどしに、モー、とにかく、燗がうーんとつけていただか、召し上がるのがお好きであった。しかも、他の酒は決して召し上がらなかった。九州では、城島の、モー、「帝国一」だけしか召し上がらなかった。灘の酒では、菊正宗だけしか召し上がらなかった。
今、モー、城島に「帝国一」という酒がありませんから、私は霊様の、桂先生の霊様のお祭りには、必ず、菊正宗を、だからお供えさして頂くんです。勿論、ここの霊様の、言わば、第一にお礼さして頂くのは、ここの初代桂松平先生の霊です。
そういう私の願いといったようなものを、思いもかけない人が、例えば18本もの、しかも超特級ばかりを霊様にお供えしてくださいと。そういう一つの実証をもって悟れと。
その前に、3升樽の菰包みのお酒が、あれはご本部の「神露」というお酒です。昨日、一昨日、藤井家の方がお参りになって、ね、あれば納めをされました。藤井家というのは、ウーン、金光様、教祖様のお嬢様のお出でられた藤井家のことです。昨日、古川がコノー、病気が治ってから、本部に未だ参っておりませんでしたから、あちらへ2日行っとりました。で、帰りに、古川家から沢山、アノー、金光饅頭のお供えを頂いて来ておる。今日の霊のお祭りにお供えです、古川家から。これは、私が毎日、ね、古川この様、言うならば、末為神様の霊様に、四神様にお取次ぎを願うのは、この霊様なんです。
藤井家は、ね、とにかく、藤井家の方がここに参って来た時に、こんな、藤井家にあったと言う、いわゆる、藤井倉様のお写真なんです。だから、「これを拝んでくれ」と言うて持って見えられましたから、私の、アノー、あちらの新館のアノー、方の私の控にお祭りしとります。そんな関係のある霊様ですから、藤井家の霊も、古川の霊、または桂松平先生の霊という霊にです、もう、適当な適切なお供えが、例えば、こうやって集まっておるじゃないか。こんな確かな手応えはないじゃないか。ね。これで、マアー、悟れよと。別に悟らせる。目に見えない世界のことだから、説明の甲斐がない仕様が無い。
ハアー、なるほど、沢山な菊正宗のお供えがあったのも、私の願い思いというものを、ね、桂松平先生の霊がお取次ぎをして下さって、こんなに集まったんだ。ね。
その、今日が霊様のお祭りとか、お祭りじゃないとか、分っておられなかっただろうけれども、古川家と藤井家からのそうしたお供えが来ておるといったようなこと、いわゆる、高松和子先生がどうでもという、ね、借金してでもというその思いに、なら、今日の、マア、自分で思うておった、甘いの辛いの取り揃えてのお供えが出来た。ね。
マア、そういうことによって、ね、何が何でも、今日、お参りなさった方がいる。玉串を上げるまでにです、いといろと、マア、感じられたことでしょうがです、そこに手応えを頂くところ、手応えが感じれるような、皆さん、信心を頂く時に、神様が信じれる霊様が信じれることになるのです
私は、昨日、昨日も、マアー、アノー、篤信の方達が、アー、昨夜の、言うならば、恵まれてない霊たちの場合なんかですから、それにいろんなおご馳走をつくって、お神酒やらを、甘い物を、それこそ、甘い辛いの揃えてお供えがありますから、昨夜、それをお供えして、エー、ご祈念をさせて頂いておりました。
そしたらね、それこそ、霊様達の宴というかんじでね、こう、何か食卓を、ここに沢山の霊達が、マアー、おご馳走を頂いておる。或る人達は、サッサとこう自分の箸でそれを頂いておられる。と、中にですね、箸をこう持ち替えて、ひっくり返して、ちょうど、お漬物なんか分ける時に、こう反対で取るでしょう。あれがどうでしょうかね。自分、自分の家じゃったら、もう、自分の箸でこうやって頂くけども。それだけね、やはり、気兼ねしとんなさる。ね。「ハアー、自分の家からも参ってもおらん。お供えもしてくれてない」。マアー、言うなら、コノー、他の霊様達のために集まってきたつをお世話になりよる。
そういうこつじゃないけれども、ソノー、箸をこう持つのを持ち替えて、こちらで挟んで頂いておられるところを、御神眼に頂いて、「アー、これは本当に、あの遺族の者の真心、または信心がどんなに有り難い必要なものかということを感じずにはおられませんでした。
ね。「信心の真を表わす」。今日のご理解の中に、これは,お道の取次者に対するご理解ですけれども、教師・信者を問わず頂かなければならないとして、今日、お話をしたことでございますけれども。ね。「物を余計に持って来る、信者を大切にして、ね、でない者は粗末にするというようなことはあってはならん。信心の手厚いのが真の信者だ」というご理解があります。あれはモー、とにかく、取次者に対するご理解。ね。だから、ソノー、信心の手厚い真の信者というのは、なら、どういう信心をする人を言うのであろうか。
自分な、もう毎日日参しよるけん、真の信者だろうか。ね。
昨日、今日もお参りになっておられると思うですけれども、萩の市川さんがお礼参拝して見えられました。熱心に信心をなさいます。昨日は、マアー、改まってのお礼参拝でした。
「親先生、私が胃がんで無い命の、無いところ、『手術をせずに』と言われて、手術をせずにおかげを頂いて、今年で丸11年になります」。
これは、毎年、昨日という日は必ず、特別の改まった、言うならば、姿勢と言うか、神様へ向ける真の心を、それこそ、思うたことを表してのお礼参拝であった。
ね。どうでしょうか。ここでは、無い命を頂いた。開けんはずの道が開けた。様々なおかげを頂いて来たと言う。私は、思うのに、信心生活とはおかげの実感の無い信心生活は、それはたいしたことじゃないと思うのです。おかげの実感なんです。ね。
もう11年にもなったんですから、ね。市川さんが、ちょうど、ここの久富先生と同年でしたから、78でしょう。その改まったお礼のお届けをさせて頂いてとりましたら、神様から「力」という字を頂いた。また、お礼させて貰いよったら、その横に「口」という字を頂いた。どういうことか。「力」という字を書いて「口」という字を書く。「加」、加えるということになる。
「これは、もう、市川さん、もう、貴方が78になられるが、ね、この喜び、このお礼の心が、また新たな命を加えて下さるおかげになるばい。」と言うてお話をしたことでした。
ね。お互いがね、甘木の信心がお礼の信心と言われたが、甘木の親先生の説かれたお礼の信心とはそういう意味のことを説かれたのではなかろうか。
真からのお礼が、ね、出来る。ね。真からのおかげの実感がそのままお礼に表れて来る。
これは、だから、余計に持って来れば来る程というのですから、私は、昨日の市川さんのは、現在の市川さんではもう精一杯のものであったと、こう思うんです。
それに、親先生がお好きだからというお茶を添えてのお供えでした。ね。
皆さんにね、お供えのお話をするのじゃないです。ね。おかげの実感がそのままね、その心が表されることを、私は「真」だと思います。ね。信心の手厚いのが、真の信者だと。
ね。と言うと、私が思いますに、天地の親神様もやっぱり「不同の扱いをすな」と言われるけれども、神様自体が、ね、真の厚い者には沢山おかげを下さる。真の薄い者には薄いおかげということになるのじゃないでしょうかね。
マー、これを厳密に、本当のことを言うとです、ね、それこそ,世界中の氏子におかげがやってあるのであり、ね、信心は、おかげは、皆平等に、おかげは下さってあるのだけれども、「受け物が悪いから、おかげが漏る」と、こう仰る。
だから、結局、あの神様がえこひいきなさる。こちらは沢山おかげ下さる。こちらにはおかげ下さらんというのは、ね、銘銘の、言うならば、受け物である、その受け物が、いわゆる、真心であり、それが真で表されるというような信心。それもです、私どもが頂いておる天地金乃神様が願いの神であられる、ね。
だから、私どもも、それを神様のお心を心として願っていく。だから、もう、合楽の信心は願いの信心だ。それも、その、ただ、我情我欲のものではなくて、マア、段々、おかげを頂いてみて分って参りますことは、いわゆる、神願成就である。神様の願いがご成就にあいなりますように、私にかけられた神様の願いが成就しますように。ね。
そういう願いと願いが火花を散らすように、私は、ある時に、神様との本当の交流とものが生まれて来ると思うのです。合楽世界は、その先なんです。
今日、私は皆さんにね、神様の間違いのなさ、これは合楽理念によるほかはない。ね。
言うならば、「土の心で」と言われるから、その土の心の実験をさして頂いておったら、なるほど、マアー、分らん何億年も前のことじゃから、人間が何処から生まれたか分らんけれども、ね、「土から出でて、土に還る。だから、その道中とても土の心で」と言われる意味が分って来るでしょう。ね。霊の世界の場合は、言うなら、段々分らなくなっていくのです。ね。そんな的確な教えが無いから。
けれどもね、その霊様に、今申しますように、真が、真心が真によって表される時、止むに止まれぬ願いを霊にかける時、ね、今日の、いわゆる霊の祭りにです、私が、言うなら、霊を拝する時に、一番に、こう、ご祈念させて頂くその霊、藤井家の霊、古川家の霊、小倉の初代桂松平先生の霊のお喜びを頂くことが出来るだろうと思われるようなお供えがね、昨日、揃うておるということ。ね。
皆さんでも、真心、その体験は頂かれたことでしょうけれども、思いを込め、真心を込めてお供えをなさるならば、そこに手応えがないはずはない。
その手応えをもって、霊様が、いよいよ大事にしていく。目には見えないけれども、ね、言うなら、それは木の根のようなもので眼に見えないところだ。その目に見えない根が、いよいよ繁盛していくのですから、上の幹に枝に花に実に、実りの上に、それが現れて来ないはずがないです。ね。
そういう、また、体験をしなければね、ただ、「今日は、霊さんじゃけん。皆んなで参ろう。」だけではね、それは、霊さんは喜びなさろうばってん、それよりも。もう一つ、合楽理念に基づいた霊様への奉仕、霊参拝のおかげお繰り合わせというものがね、願われて、そこに手応えを感じて、今日の霊のお祭りに参拝のおかげを頂いて良かったと、ね。「今年は私だけじゃったけれども、この次は本当にあいよかけよの願いのように、だっこへっこ、それこそ、家中の者が、この霊のお集まりに合わせて頂こう。」というような心が起こって来れば、皆さん、今日はおかげを受けられたということになりますね。
だから、そこをね、マー「信じなさい。信じなさい。」と言っても、なかなかですけれども、自分の体験によって霊が分る。自分の体験によって、なるほど、「人間は土より出でて、土に還る」。これは本当だ。だから、本気で土の心の、に、徹底していこうというような構えも、マア、出来て来るわけであります。
いよいよ、本年は合楽十五周年の記念大祭が10月の16日に奉仕されます。マ、そのことで皆さんも、言うならね、アノー、思いをかけなきゃいけませんよ。祈んなきゃいけませんよ。ね。
例えば、来年の百年祭に、ね、合楽から千人参りを願われております。
ですから、もう、貴方の心の中には「誰と誰と誰と誰」。もう一家から、10名なら10名の者がズーッと書き出されておる。それを祈っていかなきゃいけませんよ。
こんな素晴らしい示現活動は無いと思うです。親戚の信心の無い者にも勧めてみるがいい。心安くしておる付き合いの方にも話してみるがいい。
そして、それを10人なら10人、20人なら20人の参拝を、自分の心の中にまとめて、私、皆さん、早く提出なさらなければ時間が無いですよね。報告するのに。
そして、それを祈っていくのです。願っていくのです。神様が喜んで下さることじゃから、成就せんことはないです。
百年祭を目指して、また、十五年祭を目指して、様々な、それぞれの、マア、信心で、ね、ただ、十五年祭が来たから一家中で参っただけじゃなくて、ね、そこに一つの、信心の、そのことによって信心が鍛えられるというか、信心が育つ。そこに、記念祭という記念の節から、本当に元旦に頂いたように「目出度いとは、芽が出ることだ。」と。今年は目出度い。ね。節から芽が出ることであると言うた、言うたから、誰でも芽が出るというこちゃない。そういう信心を踏んまえて芽が出るという、目出度い記念祭にしていきたいというふうに思います。
どうぞ